2005年03月12日

マネー文明の経済学―膨張するストックの時代

マネー文明の経済学マネー文明の経済学―膨張するストックの時代 関岡正弘 (著)

レビュー 内容(「BOOK」データベースより)
文明5000年の旅の物語。マネーの起源に始まり、ペーパー・マネーの原型、銀行の誕生から、ユーロ・ダラーの登場以後、現在のワールド・マネー膨張のカラクリまで。前著「大恐慌の謎の経済学」に続く、知的冒険第2弾。

 
 
目次

1 マネーの起源―古代オリエントの世界
2 金は文明のまにまに―マネーの果たした役割
3 マネーになった紙―紙幣と銀行券
4 膨張するマネー―銀行と中央銀行
5 紙と金のコネクション―金本位制の季節
6 金と縁切れたマネー―ペーパー・マネーの時代
7 ユーロ・ダラーからワールド・マネーへ―楯の両面
8 ペーパー・マネーの秘密―複式簿記のマジック
補章 ジャパン・マネーの陥穽
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マネ−文明の経済学解説
関岡正弘著 ダイヤモンド社 1990年7月5日発行

執筆の動機

1989年9月に「大恐慌の謎の経済学」を出してすぐ、本著の執筆に取りかかりました。恐慌は投機の崩壊ということが分かってみると、では投機とはなにかという問題にぶつかったわけですが、投機は高度にマネ−現象です。そこで、あらためてマネ−とはなにかを研究しなければならなくなったのです。

しかし今の経済学はマネ−を無視しています。マネ−を理解しようとすると、自分で開拓しなければならなかったのです。やるなら徹底的にということで、マネ−の起源から始めることにしました。以下は、今は絶版となった本の著者自らの解説です。

◆プロローグ

マネ−・・・。 マネ−! そしてマネ−?実際、マネ−とは摩訶不思議なものです。「チャタレイ夫人の恋人」の中で、ローレンスは、「生きているかぎりはマネ−が必要である。そして絶対に必要なものはそれのみである」と述べています。

マネ−について、ガルブレイス教授は、「歴史以外の方法により、マネ−について長く批判に耐えうるような事柄をたくさん学ぶことができるかどうかは、たいへん疑わしい」と書いています。しかしガルブレイスが、その著書「マネ−(Money: Whence It Come, Where It Went)」で扱った歴史は、近世に入ってからで、しかもアメリカが舞台となったマネ−の部分史にすぎません。

結局、マルクスの言葉に従うことにしました。「汝の道を行け。そして人には、言うにまかせよ」とはいえ、マルクスの資本論の中でのマネ−に関する議論は間違っていると思います。買うのは、彼の学問に対する精神のみです。歴史としては、4000年前のメソポタミアに遡ることにしました。

◆目次

1 マネ−の起源
2 金は文明のまにまに
3 マネ−になった紙
4 膨張するマネ−
5 紙と金のコネクション
6 金と縁の切れたマネ−
7 ユ−ロダラ−からワールドマネ−へ
8 ペ−パ−・マネ−の秘密


【解説】
◆1 マネ−の起源

マネ−の起源について、ジョン・メイナード・ケインズは「氷河の氷が溶けつつあった時代の霧の中に没している」と書いています。しかし文学的には美しいこの表現は、経済学的にはいささかオーバーな傾きがあります。ケインズがこの世を去った後、解明されたシュメールの楔形文字文書によれば、BC2000年頃から、様々な商品の価値を、銀の重さに換算することが行われ始められました。商品の価値尺度になることは、マネ−としての重要な機能です。

これをもって、BC2000年頃、銀がマネ−になったと考えてよいでしょう。私は、誰かが「あるもの」を受けとる時、将来、別の誰かが、自分が等価と考える価値で受けとってくれると確信を持てる時、「あるもの」はマネ−になりうるというのが、マネ−に関して可能な唯一の定義と考えています。この考えに従えば、「あるもの」は、時間的に劣化しないものでなければなりません。その要件を満たすものとしては、貴金属が最適です。では、金はいつ頃マネ−になったのでしょうか。

◆2 金は文明のまにまに

金を科学的に扱うことはたいへん難しい。なぜなら、金の保有者は、その事実を隠す傾向があるからです。金問題は歴史的に扱う以外ありませんが、歴史学は、古文書等客観的証拠のない推論を冷たく拒否します。金に関する研究があまり無いのは、この歴史学の態度に起因するでしょう。しかしこの歴史学の考えは、19世紀的で膠着的にすぎると思います。

金に関し大胆に推論を加えた結果、浮かび上がった歴史の真実と考えられるものは、本e-SpaceのGold(金が歴史をつくった)で検討します。ここでは、要点のみ要約しておきましょう。

金は銀に比べて余りにも希少性が高かったため、王(最高権力者)によって独占的に保有される傾向がありました。具体的には、古代エジプト王朝のファラオから古代ペルシア帝国のシャーへ伝世したのです。古代ペルシア帝国は、初期のアケメネス朝からアレキサンダ−大王による中断を経て、パルティア朝へ、さらにササン朝へと続きました。そして西暦637年、最後のペルシア帝国ササン朝は、アラビア半島の奥からやってきたイスラム・アラブによって滅ぼされました。

ここで、金の歴史では(そして世界史全体としても)、もっとも興味深い事件が起きたのです。イスラム・アラブは通商民族で、その社会の内部には王はいませんでした。そこで彼らは、共同体の内部でペルシア帝国から奪った貴金属を分配したのです。これを、イスラム・アラブによる「金の解放」と呼ぶことにしましょう。この「金の解放」こそが、古代から中世へ歴史を転換させたのです。9世紀に、アッバス朝の首都バグダッドを中心に、広範なる国際商業ネット・ワ−クが存在していたことが解明されつつあります。金が存在するところ、必ず、政治権力か経済が興隆します。

◆3 マネ−になった紙

元代の中国へやってきたマルコ・ポーロは、当時の中国人たちが、紙切れでなんでも欲しいものを買っているのを見た時の驚きを、「東方見聞録」に書き残しています。当時は、ヨ−ロッパや、マルコ・ポーロが通ってきた中東では、ペ−パ−・マネ−は使われていなかったのです。中国で紙がマネ−として使われたのは、唐時代の末期に遡ります。四川省に、寄附鋪と呼ばれる金融業者が現れて、銭貨、金銀、布絹を預かって、預り手形(交子)を発行したことが分かっています。その預り手形が流通したのです。

唐は907年に滅亡しています。その末期といえば9世紀後半です。前節で述べたように9世紀には、バグダッドを中心とした広範なる国際商業ネット・ワ−クが存在していました。唐時代は中頃から、貨幣経済が発展しました。貨幣経済発展の根底には、産業面での生産力の増大があったとされていますが、逆です。マネ−が流れ込んできたからこそ、需要が生じ、産業が興隆したのです。

その点、最初の預り手形(交子)が現れた場所が四川省だったというのが面白い。四川省は、広大なる中国の中でも、もっとも中東に近いからです。宋代に入り、交子(ペ−パ−・マネ−)の発行権が民間の有力者に与えられました。宋代は、経済が発展したことで知られています。増大したマネ−に対する需要を、このようなやり方で賄おうとしたのでしょう。

しかし交子はしばしば過大発行され、価値を失いました。その度に経済は大混乱に陥りました。そこで宋王朝は、官営の交子を発行することにしたのです。次の元の時代に入っても、国家が中統鈔という交子を発行しました。最初は、銀との兌換を前提に発行されていたのですが、やがてその節度は放棄され、中統鈔の価値は暴落しました。元は、次々と新しい交子を発行しましたが、同じことの繰り返しで、最後は銅銭が復活せざるをえませんでした。そして元は滅びたのです。

中国で、世界で最初に紙がマネ−として使われた理由は、第一に、中国では金や銀は無論のこと、銅すらも不足していたことを挙げなければなりません。第二は、国家が発行する紙幣は、強大なる国家権力を前提するわけですが、中国の宋や元の国家権力はそんな条件を満たしたのです。しかし中国型のペ−パ−・マネ−は、安定的な社会システムとしては定着しませんでした。

ペ−パ−・マネ−には、国家が発行する紙幣と銀行が発行する銀行券の二種類があります。もう一方のペ−パ−・マネ−である銀行券の本格的誕生は、17世紀末ロンドンのゴ−ルド・スミスの複式簿記の上で誕生しました。

◆4 膨張するマネ−

この章では、まず、複式簿記誕生の経緯について考えます。現存する最古の複式簿記は1340年頃のものとされます。しかし、それは、すでに完成された水準に達しているので、複式簿記そのものの起源は、さらに古く、13世紀後半に遡ると考えられます。そう考える根拠は、この節を読むことによって分かるでしょう。イスラム・アラブの時代、ヨ−ロッパは、一人蚊帳の外にありました。バグダッドを中心とした国際商業ネット・ワ−クの外に置かれていたのです。

その理由は一つしか考えられません。金銀をいっぱい持っていたアラブ商人に、売る商品が存在しなかったのです。あらためて、ヨ−ロッパの中世について考えましょう。西ロ−マ帝国が滅亡した後、ヨ−ロッパはゲルマン民族の世界になります。現在のヨ−ロッパに繋がる最初のエポックは、800年のシャルル・マ−ニュの戴冠式です。

次のイベントは、960年頃のオットー大帝による神聖ロ−マ帝国の始まりです。そして、さらに決定的だったのが、1250年代の北イタリアの諸都市の興隆です。具体的には、ヴェネチア、フィレンツエ、ジェネヴァなど諸都市が経済的に興隆し、金貨を鋳造しました。私が、「マネ−文明の経済学」としてまとめた歴史研究によれば、経済が発展した結果としてマネ−が蓄積されるわけではありません。逆なのです。

なんらかの理由でマネ−が流入した地域で経済興隆が起きるのです。理論ではなく歴史的事実です。上記三回のヨ−ロッパのエポックの直前に、如何なるマネ−の流入があったのでしょうか。あくまでも推理にすぎません。しかし歴史的事実に基づいて推理すると、以下の通りのシナリオが浮かび上がってきます。

730年頃、ピレネー山脈を越えてイスラム・アラブ軍団がフランスへ侵入しました。迎え撃ったのが、メロヴィンガ朝の宮宰、シャルル・マルテルです。イスラム・アラブ軍団は粉砕され、ヨ−ロッパのイスラム化は、ピレネー山脈以南に押さえ込むことができました。なにしろ、当時のイスラム・アラブはたっぷり貴金属を持っていたのです。遠路はるばる遠征してきたイスラム・アラブ軍団が、豊富な軍資金を持っていなかったはずはありません。その軍資金がシャルル・マルテルの手に入ったことも間違いないと思われます。

751年には、シャルル・マルテルの子、ピピンがメロヴィンガ朝を倒し、カロリンガ朝を始めます。ピピンの子がシャルル・マ−ニュです。タイミングからみて、シャルル・マルテルの手に入ったイスラム・アラブ軍団の軍資金が、ヨ−ロッパを大きく動かしたというシナリオが浮かび上がってきます。次に、神聖ロ−マ帝国を開いたオットー大帝が北ドイツから出た背景を考えましょう。

20世紀に入って、バルト海のゴットランド島から大量の銀貨が出土しました。その銀貨の中に10世紀に中央アジアに存在したイスラム・アラブのサーマン朝の銀貨が大量に含まれていました。カスピ海からボルガ川を経由して、バルト海へ通ずる交易ルートが当時存在していたのです。北ヨ−ロッパは銀貨の見返りになにを輸出したのでしょうか。今となっては、はっきりしたことは分かりません。でも、多分奴隷だった可能性が高いと考えられます。

それはともかくヨ−ロッパは、どうやら北から経済発展し始めたと考えられます。興味深いのは、遥か後世、北イタリア諸都市が興隆し始めた時、毛織物業において、北イタリアは今のオランダ地方から、技術を導入したことが分かっています。

最後に、北イタリア諸都市はなぜ、1250年頃から興隆し始めるのでしょうか。その理由で、もっとも蓋然性が高いのは、第四次十字軍(1202年から04年まで)が、ビザンチン帝国の首都コンスタンチノプールを攻撃し、約半世紀ラテン帝国を維持した歴史的事実です。イスラム・アラブが解放した貴金属のある部分がビザンチン帝国へ流れ込んだことは間違ありません。

ビザンチン帝国の歴史を調べると、7世紀と8世紀には、ほとんど経済が衰退していたのに、9世紀になると明らかに経済発展しています。イスラム・アラブは「知恵の家」という国家組織を作って、ギリシア語の文献をアラビア語へ翻訳しました。その際、アラブは、ビザンチン帝国に本の重さと同じ金を支払ったと伝えられています。ビザンチン帝国もまた、イスラム・アラブが解放した金のお蔭を受けていたが、第四次十字軍はその金を奪って北イタリアへ運んだというシナリオが考えられます。

ところで1500年代に入り、イギリスは、エンクロージャーによって原始蓄積の時代に入ったとされていますが、この場合もマネ−が先です。15世紀半ば頃から、イタリア商人たちが、イギリスの農民に対して、問屋制前払いでマネ−を貸付け、羊毛を生産させたのです。この場合も、マネ−の流入が原因で、結果が経済発展ないし資本蓄積なのです。以上の、ヨ−ロッパ経済発展の経緯を頭に置けば、複式簿記がなせ、13世紀というタイミングで出現したのか、その理由が明らかになったと思います。

それにしても、ビジネスにとって、マネ−の出入りの記録が必要なことは分かるけれど、なぜ大福帳から複式簿記へ進化しなければならなかったのでしょうか。それは、一にかかって債権債務関係の記録の必要が生じたからです。債権債務関係は、ビジネスが高度に発展した段階で必ず現れます。

13世紀後半、北イタリアにペルッティとバルディというス−パ−商社が興隆したことが分かっています。両社の支店はヨ−ロッパやアフリカ北岸、さらに中東に広がっていました。それも当然でしょう。当時は、信頼できる取引先が存在しなかったと考えられます。すべて自分でやらなければならなかったのです。興味深いことは、この張り巡らせた商社のネット・ワ−クから、為替銀行が現れてくることです。

為替は請求書です。ズバリ債権債務関係を代表しています。複式簿記のニーズはこのような事情だったと考えられます。
この複式簿記というシステムから、17世紀末、人類史上でも最大級のエポックが生じました。17世紀には、イギリス、とくにロンドンには貴金属を所有した商人たちがいました。彼らは、貴金属を食器などにして楽しんだのでしょう。

ゴ−ルド・スミス(金匠または金細工師)が重要さを増していました。商人たちは、最初ロンドン塔に貴金属を預けました。しかし国王との関係が悪くなると(王党と市民階級は政治権力を巡って争っていました)、没収されることを恐れて、ゴ−ルド・スミスに預けるようになったのです。ゴ−ルド・スミスは、金を預かった際、預り証を発行しました。その預り証が金貨の代りに流通するようになったのです。

先に見た中国の場合と同じです。しかし、ここから先が違っていました。預り証が金に代って流通するようになると、ゴ−ルド・スミスの金庫の中には、常に金が滞留するようになりました。ゴ−ルド・スミスは、その金を貸し付けるようになりました。ゴ−ルド・スミスは、今や預金・貸付銀行へと進化したのです。

貸し付けられた金も、安全のため、再びゴ−ルド・スミスに預けられました。すると、ゴ−ルド・スミスの複式簿記に記載される資産は、貸付け分だけ増えることになります。これが信用創造です。この場合、「信用」とはマネ−と同義です。人類は、信用創造によって、初めて必要に応じていくらでも増殖できるマネ−を手に入れました。

◆5 紙と金のコネクション

中世末期のヨ−ロッパは深刻なマネ−不足、つまり貴金属不足に陥っていました。ヨ−ロッパの経済は、中東からの貴金属(マネ−)の流入によってテイクオフしたのですが、発展しすぎてマネ−が足りなくなったのです。対策として、まず金貨の悪鋳が行われ、さらに大航海時代が始まりました。ヨ−ロッパ人たちは、貴金属を求めて海外へ出掛けていったのです。

そんな中、17世紀末になるとイギリスで、摩訶不思議なシステムが誕生しました。必要に応じて、いくらでもマネ−を創り出す預金貸付銀行というシステムです。しばしば触れているように、マネ−の存在量が経済発展の度合いを決めるのです。
イギリスが、世界でもっとも早く、産業革命に入り、テイクオフし始めたのは当然です。イギリスのこの便利なペ−パ−・マネ−・システムは100年ばかり順調に機能しました。

しかし18世紀末、ナポレオン戦争が起きると、イギリスから大量の金が流出したため、イングランド銀行は銀行券と金の兌換を停止せざるをえなくなりました。ペ−パ−・マネ−・システムとしては、最初に見舞われた危機でした。なにしろ、一片のペ−パ−にすぎない銀行券がマネ−として流通するようになったのは、いつでも本物の金貨と交換できるという保証ないし信用が基盤にあったからです。

その保証が失われれば、紙は紙に戻らざるをえないのです。ナポレオン戦争が終わった直後、1816年にイギリスは銀行券と金の兌換を復活させようと努力します。その頃になると、金と兌換する制度を金本位制と呼ぶようになっていました。
イギリスの金本位制再建の道のりは険しく、時間がかかりました。ようやく1844年のピール条例として、イギリスの金本位制は確立したのです。

ピール条例はイングランド銀行券の発行高を厳格に制限していました。手持ちの貴金属量プラス1400万ポンドに制限したのです。このあまりにも厳格な規制のお蔭で、イングランド銀行券の価値は金と等しくなりました。それは、国際的には、ポンドの通貨価値が金と等しくなったことを意味します。

1870年頃、日本やドイツが近代国家の仲間入りをしましたが、これらの国家は、ロンドンの銀行に預金して、貿易の決済を行いました。このことは、それまでイギリス国内でのみ、恩恵を与えていたペ−パ−・マネ−制度が国際的に利用できるようになったことを意味します。世界経済は大いに発展しました。明治維新による日本の近代化は、歴史的に正に絶好のタイミングで行われたことになります。

◆6 金と縁の切れたマネ−

1914年に第一次大戦が始まると、イングランド銀行は金本位制、つまりポンドの金兌換を停止しました。この時点で、国際的な貿易決済システムは消滅したことになります。第一次大戦が4年間で終ると、直ちにイギリスの金本位制復活が期待されました。しかし、かってのイギリスの圧倒的な力はすでに失われていました。イギリスは、1925年になってようやく金本位制を復活させます。しかし安定はしませんでした。1930年には、イギリスは金本位制を放棄します。

ここに、国際貿易決済システムを失った世界経済はブロック化し(ポンド、ドル、フラン・金、円およびマルク)、国際貿易は大きな打撃を受けました。これが、第二次大戦の遠因とされています。第二次大戦が連合国側の勝利に終る直前、アメリカとイギリスの主導で、国際貿易決済システム再建のための努力がなされます。しかしケインズのバンコール案は、アメリカのホワイト案に敗れます。そしてIMFが創られます。

しかしIMFは、為替レートを固定したこと、貿易決済で一時的な危機に陥った国を一時的に救済するシステムを確立しただけにすぎませんでした。そのままだったら国際貿易決済システムは存在しなかったでしょう。しかし現実には、アメリカのドルが国際マネ−になったため、この問題点は顕在化することがありませんでした。アメリカだけは、金本位制を維持していました。といっても、金の兌換に応じる相手は外国政府に限られていました。いわば縮退した金本位制です。

フランクリン・D. ルーズベルト大統領は、就任直後、ドルの価値を1オンス20.67ドルから35ドルへ変更しました。その直後から、アメリカに金が流れ込み始めました。8年間に1万5000トンの金が流れ込んだのです。今から20年ほど昔、人類が有史以来生産した金の量は10万トンといわれていました。うち2万トンは、失われるか地下に埋蔵されており、残りの4万トンが各国の中央銀行、また4万トンが民間によってに保蔵されいるとされていました。

アメリカへ金が流れ込んだのは1930年代後半から40年代初めにかけてのことですから、1万5000トンの金が持つ意味は計り知れないものがあります。第二次大戦後の世界経済を考える場合、「アメリカの歴史統計」に記載されているこの事実は、見逃してはならないと思います。それにしても第二次大戦は、恐るべき総力戦でした。日本やヨ−ロッパ、アメリカを除く先進国の生産力は全滅しました。

一方、アメリカは、1930年頃から経営管理技術を発展させました。また、第二次大戦中、統計学を基礎にオペレ−ションズ・リサ−チ(人間行動を科学的に研究する技術)を発展させました。そのため、第二次大戦後、アメリカの生産性は2倍高いといわれました。マスプロダクションでつくられたアメリカの高品質の工業製品は世界を圧倒するポテンシャルを持っていました。

この点は、第二次大戦後ドルがインタ−ナショナル・マネ−になるための必要条件でした。後は十分条件が必要でした。その第一段はマ−シャル・プランです。アメリカは、1948年間から4年間に125億ドルの巨額の資金をヨ−ロッパの経済復興のために支出しました。第二段階は、アメリカの膨大なる軍事支出です。

アメリカは東西対決の下、ソ連に対抗するために地球規模で軍事基地を張り巡らせました。その維持のため、巨額のドルが経常的に支出されました。皮肉な見方ですが、以上二つの条件が、国際的な巨大なドルの還流システムを作り上げたのです。換言すれば、ドルがインタ−ナショナル・マネ−になったということです。

ところが1960年代になると、この還流システムが徐々に崩壊し始めます。日本とヨ−ロッパが急速に経済復興すると、絶対優位性は失われます。ドルが海外で滞留するようになったのです。アメリカの金本位制は危機に陥りました。アメリカが金本位制をとっている以上、海外に滞留したドルはアメリカが保有する金を何時でも請求できるわけです。アメリカは遅かれ早かれドルのデバリュエーション(切り下げ)に追い込まれると読んだ投機家が金を買い始めました。

この時期の投機家はチューリッヒの小鬼と呼ばれました。アメリカは、次々と対策を打ちました。ローザ・ボンド、金利平衡税、金プールなどです。しかしいずれも失敗に終ります。自由市場の金価格は、1オンス35ドルの公定価格を上回るようになりました。この一物一価の原則に反する状態は長くは続きませんでした。1971年、アメリカのニクソン大統領は、ドルと金の兌換を停止しました。ここに、金との兌換を前提としてのみ誕生したペ−パ−・マネ−と金のリンクは、最終的に切れたのです。

◆7 ユ−ロダラ−からワールドマネ−へ

1970年頃以後の世界経済は、前人未到。まったく新しい領域に入ったといえます。ユ−ロダラ−という虚構のマネ−を基礎として、すべてを組み上げているのです。ユ−ロダラ−は、アメリカのドルが国境を越えて、そのままドルとして存在しています。具体的には、ユ−ロダラ−とは、ヨ−ロッパを中心とした外国銀行のドル立ての預金です。

この場合、外国銀行とはアメリカ以外の銀行が主ですが、アメリカの銀行の外国支店も含まれます。ユ−ロダラ−が誕生するまでは、ペ−パ−・マネ−はそれぞれの国境の中においてのみ有効でした。たとえば、アメリカ人がイギリスで預金しようとするとドルをポンドに換える必要がありました。ユ−ロダラ−という奇妙なものが出現した切掛けは、1949年頃に遡ります。

革命後の中華人民共和国が、ドルをパリのソ連の銀行に預けたのです。もしそうしていなければ、1950年の朝鮮戦争に伴い、敵性資産として、アメリカによって凍結ないし接収されていたかもしれません。ユ−ロダラ−、つまりアメリカの国境を越えたドルが急成長するのは、1957年のポンド危機以後です。それまでイギリスは、ポンドの国際性をまがりなりにも維持していました。しかし1957年以降、を放棄します。

そのままでは、ロンドンは国際金融市場としての立場を失う恐れがありました。そこで、イギリスはイギリスの銀行にドル建ての預金を預かることを許可したのです。1960年代に入り、アメリカは、意図せずにユ−ロダラ−育成策をやってしまいました。金利平衡税です。当時、アメリカの金利は、の国に比べてたいへん安かったのです。日本など外国企業は、アメリカで起債し、設備投資のための資金を調達しました。

アメリカの銀行はそうすることによって、満足していたのですが、アメリカ連邦政府は、海外にドルが流出することを警戒していました。海外に滞留するドルが増えると、アメリカが維持している金本位制が危うくなるからです。金利平衡税とは、海外の高金利とアメリカの低金利の差を税金として徴収しようというのです。それによって、外国企業がアメリカで起債することを制限できると考えたのです。

皮肉にも、アメリカ国内で実施された金利平衡税は、アメリカの銀行がヨ−ロッパへ行き、そこで外国企業へドル建てで貸し付ける風潮を助成しました。1960年代後半以降、アメリカの銀行は大挙して外国へ進出することになりました。そしてユ−ロダラ−市場の成長に貢献したのです。

1973年の第一次石油危機は、ユ−ロダラ−市場に大きな転機を与えました。一挙に4倍になった石油代金を支払うため、日本を含めて、石油消費国はユ−ロダラ−市場でドルを借りまくったのです。ユ−ロダラ−市場の規模は一挙に2桁位膨張しました。国境を越えたドルには、アメリカの法規は適用できません。

中でも問題だったのは、無限の信用創造を禁止する連邦準備金制度規制法レギュレーションD項が適用されなくなったことです。一挙にインフレートされたユ−ロダラ−は、最初、オイルダラーとして産油国の預金として、国際銀行の貸方に記載されました。しかし間もなく、先進国へ還流してきました。産油国が大いなる工業投資を行ったからです。

以後、先進国では、基本的にマネ−過剰時代が続いています。ユ−ロダラ−市場はオフショアー時代に入り、さらに一段と飛躍しました。ユ−ロダラ−は、アメリカの国境を越えたにすぎません。しかしやがて、一切の国境を越えるマネ−が出現したのです。それがオフショアー金融市場です。

オフショアー市場では、いっさいの行政的制約が科されません。オフショアー市場は最初、ケイマン諸島、バーミュダー、パナマなど、まだ諸法規が整備されていない小さな国につくられました。しかしやがて、観念上のオフショアーがつくられました。東京のど真ん中にある銀行の帳簿のあるページに記載された数字が、日本の行政法の適用を免れるようになったのです。このような無国籍マネ−は急膨張し、ユ−ロダラ−は、いつの間にか、ワールドマネ−となっていたのです。

◆8 ペ−パ−・マネ−の秘密

省略します。

◆エピローグ

最後に、私なりに、「マネ−とは何か」という問題に答えを出しておきましょう。マネ−とは、変幻万華の「価値」が形をとる、その一つの形にすぎないのです。

では価値とはなんでしょうか。価値とは、人間の頭の中に存在する概念にすぎません。それが客観性を持つことができるのは、価格という尺度を通じてだけです。貧しい石川啄木は、ある時『オスカー・ワイルド 芸術と道徳』という豪華本に、大枚3円50銭を投じてしまいます。しかし啄木は、後悔と生活苦の中で、その本を、古本屋に1円30銭で売り払います。そして啄木は、「僕は、2円20銭も損をしてしまった」と嘆いたと言われます。

この例くらい、価値が主観的であることを教えてくれる例も珍しいと思います。マネ−もまた主観的価値です。マネ−を厳密に定義するこいとは、あきらめなければなりません。ハイゼンベルグの不確定原理を思い出す必要があります。マネ−は歴史的・社会的存在物です。目に見えない、それ故、理解することも難しい。しかしマネ−こそが文明をつくり出したのです。「文明を支えるもの」それがマネ−の定義です。経済学はもっとマネ−を研究すべきです。

http://homepage3.nifty.com/sekiokas/Topfile/Economics/Moneycvl.html
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