2005年03月05日

田中角栄もロックフェラー家に招かれていた

■忘れ得ぬロック家の招待

<馬場もある大邸宅>ニューヨークヘきた私を待っていたのはロックフェラー家の招待である。アメリカの有名な財閥で、当主になる長兄のロックフェラー三世、次兄のロックフェラー、ネルソン(ニューヨーク州知事)、末弟のロックフェラーニァビット(チェスマンハッタン銀行社長)三兄弟の主催。

IMF総会を終わり、ニューヨーク経曲で帰国する各国代表を慰労するため、アメリカ政財界の指導層も集まって開かれるこの催しは、和気あいあいとしたもので、IMF総会終了後の恒例行事だといわれている。私はニューヨークの郊外、セントラル・パーク横にあるホテル・ピェールに宿泊した。窓の外はすぐ公園で、ちょうど東京の帝国ホテルから日比谷公園をみるような環境である。

九月二十三目、私は娘といっしょに車に乗ってロックフェラー邸に出かけた。運転手は在米生活四十年という目系二世である。この運転手がハンドルをにぎりながら「大臣、映画や人の話では東京も変わったそうですが、きっと見違えるほどでしょうね」などと開くので「変わったよ。多少無理をしても一度は帰ってみるんだね」と、話にすっかり花が咲いた。

ところが車は一〇〇キロのスピードで走っている。話に身がはいりすぎ、娘も彼の身の上話に涙ぐんでいる間に、高速道路の曲がり口をすぎて別な方向に何十キロときてしまった。これは困った、と思った瞬聞、周囲にパトロール・カーがいないのをたしかめた運転手は、あざやかなユー・ターンをやってのけた。

おかげでロックフェラー邸へは定刻に着くことができた。「彼はやはり目本人だ。高速道路では禁制のユー・ターンを敢行して私たちに遅刻させないあたり、何十年たっても日本人の“たくましさ”は抜け切れんとみえる」−この小事件の体験で妙に感心したことを覚えている。

ロックフェラー邸はプカンティデュ・ヒルズという丘の上にある。邸内の広さは驚くべきもので、プールはもちろん馬場まであるのには恐れ入った。ところが邸内には日常ここで暮らしているようすがみあたらない。閾いてみると「ロックフェラー一家はニューヨークの高層アパートのいちばん上に住んでいる」という返事。ニューヨークのアバートは、部屋が上になればなるほど値段が高い。

これは全般的にビルが高層化しているので、上部で視界が広くなればなるほど値も高くなるというわけだ。地震国、同本ではビルの一階がいちばん値が高いのにくらべ、まったく逆の現象である。

ロックフェラー家の邸内には一種の厳粛な家風といったものがみなぎっていた。玄関の応接ホールには、当主の両親と長姉、軍服姿をした三人の男の子の写真が飾られているだけで、ほかにはなんの装飾品もなかった。サンフランシスコのボヘミアン・クラブと似た感じで、渋く落ち着いたふんいきであることが印象的であった。

<肩の荷おろし談笑>

会は楽しいものであったが、私には困ったことがひとつあった。それは招待者は本人に限られ、通訳を入れないことである。「英語を話せないのは私だけではなかろうか」と心配したが、会場には英語やフランス語、それにス。ヘイン語が入り乱れて、お互いにちんぷんかんぷんの人たちが多く、私も内心ホッとした。ところが、そこへ南アフリカの大蔵大臣シェラレオーネ氏がやってきたのである。身長七尺、体重四十五貫の偉丈夫、IMF総会では私の隣席だったから、お互い顔は知っている。しかし話は通じない。お互いが握手を繰り返すばかり。これには困った。もともと私には、この会でも通訳がいなかったわけではない。英語の話せる娘といっしょに招かれていたのである。

だから私は邸内にはいる前に娘にたいして「きょうは通訳がおらんのだから、お前はお客さんというより、おとうさんの通訳としての責務を果たさなくてはいけない」ときつく申しわたしておいたのである。ところが、娘は親のいうことを聞かず、すぐ私のそばを離れては、遠くの席でブラック世銀総裁夫人やウッズ・ファーストボストン証券会長夫人らとぺちゃくちゃしゃべっている。このときは、つくづく「人をたよってはいけない」と思った。しかし"捨てる枠あれば助ける神あり"というが、困っている私をみて、チェスマンハッタン銀行のラムネック氏がほとんど私に
つきっきりで、なにくれとなくめんどうをみてくれた。私は遠くの方でよその奥さんたちと楽しそうに話している娘をみながら"遠くの親せきよりも近くの他人。ということわざを身にしみて感じた。

招待からの帰り道、私は娘と一言も口をきかなかった。ロックフェラー家の招待をめぐるこのようなホロにがい体験も、いまになってみれば、やはりなつかしい思い出である。日本では外国から要人や使節団がくると、すぐいろいろな会杜、団体が争って招待競争をやる。

私はこんどの経験を通じて同本のこれまでのようなやり方では、まずいと思った。政府や公的機関主催のとおり一辺のレセプションより、公式な会議を終えて肩の荷をおろした外国代表を一堂に招き、日本の政、財界の首脳も加わって談笑の機会を持つことのほうが、どれだけ豊かな実りをもたらすことか。ロックフェラー方式は大いに参考にしたいものである。

「大臣日記」 田中角栄著(新潟日報社)96〜100ページ


[7603]忘れ得ぬロック家の招待 投稿者:アルルの男・ヒロシ投稿日:2005/03/01(Tue) 13:46:18
アメ政掲示板



【ボヘミアン・グローブにも】


<女人禁制のボヘミアン・クラブ>

経済界に籍を置く人たちの親睦クラブであるが、ここだけは過去も現在も、また将来も女人禁制で「輩(くん)酒山門に入るを許さず」式のもの。会長の夫人同伴も許さないとのことだった。要は男どもが女性の監視から逃れて一夕一室にこもり、少年のころにかえりたいという趣向らしい。

このクラブに入ると、絵の好きなものは絵をかき、歌の好きなものは歌う。それぞれ好きなことを静かにやりながら、その結果を会員に披露してたのしむ、というものである。アメリカの近代都市観とはおよそかけ離れた古い建て物であり、ふんいきであった。歴史の浅いアメリカ人のやるせない思いかもしれない。

歓迎会には二十四、五人の人々が集まって各人がこのクラブで練習し、修得した芸術を披露した。私はこの席のスピーチで、「現在、日本はバンク・オブ・アメリカに金を借りているが、やがては貸すほうに回りたいと考えている。しかし、当分はまだ借りる側である。優良な投資先である日本にはどんどん金を貸したほうがよいと思う」といって拍手をあびた。そのさいの話し合いで、丸善石油の再建資金貸し増しも決まったのである。私が冗談に「金を借リる側の目本がごちそうになって恐縮だ」といったら「アメリカでは金を貸すほうがごちそうする」との返事があり、参会者は声を立てて笑ったものである。

ボヘミアン・クラブ−それはサンフランシスコの思い出の中に鮮明に残っているものの一つだ。シスコからワシントンまでの空路は、大陸を横断してコロラド渓谷の真上から五大湖まで一直線。そこからワシントンまではすかいに南下する。距離四、二〇〇キロ、所要時間は五時間である。

「大臣日記」田中角栄著(新潟日報社)69〜70ページ



posted by ヒート at 17:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/2265451

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。